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足立区の歴史
●奈良時代
足立区に関する最も古い記録は、天平七年(735)足立から奈良の都へ「蓮の実」を送ったと書かれている「木簡」だ。平城京遺跡から出土した。その頃、既に大和朝廷に支配される状態にあり、収穫した産物を、国の中心である奈良の都へ届けるような関係にあったと思われる。湿地を蓮田として利用していたんだろうね。蓮の実は「薬」として使われていたとようだ。木簡とは薄く削った木の札で、今日でいうメモ、記録帳、荷札のことだ。遠く離れた奈良までどのように運ばれたのか、どういうルートを通ったのかなどは不明だ。舟により太平洋沿岸を伝って行ったか、険しい難路を馬の背に揺られて行ったかしたんだろう。今から1300年以上も前から、足立と奈良との間で物流があったということは大変興味深いねぇ。しかしこの頃の足立は埼玉県の北足立をも含むから、足立区内から送ったかどうかは判らない。
●平安時代
今から900年以上前、源頼義・義家・義光一行は、京都から東北征伐に向かう途中に足立を通り、戦が無事に勝利するよう神仏に祈ったといわれる。謂れのある土地を辿ると、道が一本に繋がっていて、古くから東北へ向かう道が区内を通っていたことが判る。源頼義、義家、義光親子が自分達の目印の「白幡」を立てたという伊興の「白幡塚」現在は公園になっている。
「千住大橋の架橋」「千住宿の制定」、そして「綾瀬川の改修と見沼代用水の整備」が行われた江戸時代に、足立区は大きく変貌を遂げた。時の将軍徳川家康は江戸を水害から守る為に、関東地方の川の流れを変え、綾瀬川を修復、利根川の流路を移し、足立や埼玉県の田畑の質の向上に成功する。そして千住大橋を架け、「藩」という国の間を往来しやすくしたため、江戸は爆発的に人口が増加、千住には江戸へ出荷する野菜市場が設けられ、足立の人々は、野菜を市場に届けた。葦で覆われた土地も、耕した人が使える権利を与えたので、人々は一所懸命に湿地を開発田畑に変えて行った。
●鎌倉・室町時代
鎌倉幕府の編纂した公的記録「吾妻鏡」に、元暦元年(1184)足立遠元という武士が奥州合戦の際、源頼朝に従って出発し、側近として活躍をしたとある。その後も足立氏の名は度々登場する。また康元元年(1256)街道に夜盗、強盗が出没するので伊古宇又次郎らに街道筋の警護が命じられている。伊古宇氏は伊興周辺を支配する武士であることから、奥州へ通ずる主要な道筋となっていた「伊興」周辺の、治安維持の役目を担うよう命じられたのだろう。また盗賊が横行するという事は、十分に人の往来があり、集落もあったことが判る。戦国時代、伊古宇氏は衰退し、代わって千葉氏が渕江・伊興・保木間を領有し、後北条氏に従属している。千住は?千葉氏一族が住んだ?ことから起きた地名だともいわれている。
●江戸時代
天正十八年(1590)徳川家康が江戸に入り、慶長八年(1603)幕府を開いて政治の中心を江戸に移した。当時下町低地には利根川、荒川などの大河川が流れ、下流の首都江戸も含めて度々水害の被害に悩まされていた。幕府は河川の改修に取り掛かり、利根川を東遷させて河口を銚子へ向け、また荒川は入間川に移し、江戸を水害から守ると共に、足立区域については、見沼代用水を整備し、悪水落としの新綾瀬川を開き農業基盤を整えた。また、千住大橋を架け、江戸4宿の1つとして千住宿を整え、日光街道も整備していった。この千住には、物資の集散地として青物市場も出来、近郷近在から農業産品を始め多量の物資が流通して賑わい始めた。舟運によって入間、川越と結ばれ、物資・文化が行き来した。新田開発の政策も取られ、神奈川や八王子、埼玉からも人々がやってきて入植した。大消費地江戸近郊の地の利を生かし米・野菜を中心に農業生産に精を出した。こうして苦難に苦難を重ねて次第に耕地を増やして行き、忽ちにして湿地は農地に生まれ変わった。
●東京府
現在の足立区の区域に入る江戸時代の41町村は、慶応四年(1868)武蔵知県事桑山圭助に属し、同2年1月13日〜同4年11月13日の小菅県を経て東京府に編入、同7年3月8日「大区小区制」の拡大で第10区に組み入れられ自治権喪失。同8年11月22日埼玉県から舎人村を編入、明治11年7月22日大区小区制の失敗に鑑み発布された「郡区町村編制法」により全域が南足立郡に復し、国民の輿望による更なる自治権拡張のため、同22年5月1日「郡区町村編制法」を廃した新たな自治法「市制町村制」により千住町・西新井村・梅島村・江北村・綾瀬村・東淵江村・花畑村・淵江村・舎人村の1町8ヶ村に統合されて自治権は少し拡大した。
■千 住 町 千住北組・千住中組
■西新井村 西新井村・本木村・興野村
■梅 島 村 梅田村・島根村・小右衛門新田・栗原村
■江 北 村 小台村・沼田村・堀内村・鹿浜村・鹿浜新田・加々皿沼・宮城村
■綾 瀬 村 次郎左衛門新田・弥五郎新田・五兵衛新田・伊藤谷村
■花 畑 村 花又村・六ツ木村・内匠新田・久左衛門新田・辰沼新田・久右衛門新田・長左衛門新田・嘉兵衛新田
■東淵江村 佐野新田・大谷田村・長右衛門新田・蒲原村・北三谷村・普賢寺村
■淵 江 村 保木間村・六月村・竹塚村・伊興村
■舎 人 村 古千谷村・舎人村・入谷村
同24年5月1日淵江村から伊興村が分離して1町9ヶ村、昭和3年梅島村と西新井村が町制に移行して3町7ヶ村、同7年10月1日東京市の20区増設によりに市に編入、南足立郡下の町村が統一して一区となり、郡名を区名にスライドして足立区106町となった。
●東京都
昭和18年「府県制改正」により東京都所属、同21年9月27日「都制改正」により知事・区長が任命制から公選制に移り自治権が大幅に拡大した。国家主義の内務省官僚が権力の喪失を嘆いて大反対したものの、占領軍が「私利私欲に走らず国民を自由にしてやれよ」と諭して押し切った。内務官僚は泣く泣く引き下がって臍を噛んだ。同37年5月10日「住居表示に関する法律」が施行されたが、この区の大半は不名誉な施行除外だった。しかし平成16年現在86町のほとんどで完了、新住居表示未実施は千住2〜3丁目・千住橋戸町・千住緑町の4町のみ。舎人町・古千谷1〜2丁目・西伊興町・入谷町の一部が残っているが舍人公園に吸収される町域で、公園が完成すれば旧町名は消滅する。
「東京のチベット」「埼玉の植民地」「彼氏に住んで欲しくない23区ナンバー1」というイメージだというのを足立区の人から聞いた。田舎っぽいのは西武線沿線だし、逆説的には足立区の人は自慢してるんだと思う。この区だけはマンション団地になって欲しくない。筑波エキスプレスの開通で都心と直結したし、新交通システム日暮里舎人線も開通、総合病院もあり、練馬・江戸川両区を越えている。もう「東京のチベット」などとはいわせない。区役所は中央本町にあり、友好・姉妹都市はベルモント(オーストラリア)。参考資料『足立区史』『足立区の歴史』『大日本地名辞典』など。
■名誉区民
区制50周年を迎えた昭和57年に、区の発展及び区民の生活と文化の向上に貢献し、区民が郷土の誇りとして尊敬し敬愛できる者を顕彰する「足立区名誉区民条例」を制定した。この条例に基づき区制50周年、60周年、70周年を迎えたそれぞれの節目の年に、名誉区民としてふさわしい功績をあげた者を顕彰している。
50周年 大山雅二(東京府職員・初代足立区長)
60周年 志村文蔵(足立1丁目町会長・各PTA会長など)遠峰冨次(区議会議員7期28年・区議会議長5期)
70周年 田口富藏(本木南町会長・町会連合会長・区福祉協議会長など)鯨岡兵輔(区議会議員・都議会議員・衆議院議員12期36年・環境庁長官)
■足立区からこんな人が育った
ビートたけし・北野武(漫才師・司会者・映画監督)、北野大(武の兄・工学博士・コメンテイター)、浅野温子(女優)、田中好子(キャンディーズ 女優)、木村カエラ(歌手・モデル・タレント)、原田芳雄(俳優)、小川眞由美(女優)、上原さくら(タレント)、SILVA(歌手)、原田龍二(俳優)、高山みなみ(声優)、雛形あきこ(タレント)、前田健(ものまね)、早乙女勝元(作家)、天野祐吉(コラムニスト 編集長)、永沢まこと(イラストレイター)、清水隆行(野球選手)、斎藤雅樹(野球選手)、栃東大裕(大相撲大関)、森且行(競輪選手 SMAP)、武田幸三(格闘家)、鴨下一郎(環境大臣)など。
■足立の由来
『続日本紀』に初めて登場する。松平定常は、この辺りはむかし湿地が多く葦が繁茂していたので、葦が立つところ?葦立?と称し
たのに始まると説く。葦と足の関係は、古来より和歌で葦を足にいいかけて、「葦の迷い」ということがある。つまり葦の生い茂
る間で迷うように、行き先に迷うこと、?足の迷い?を意味している。葦が足に変化することは不思議ではない。当時は埼玉県も武
蔵国だから、足立郡は北に長く広大な範囲に及び、武蔵国の東部は元々が海で、利根川が流れ込んでいた。やがて湿地となり砂州
となりして陸地化したから、葦が自生していたとしても非常に理に適っている。『日本地理志料』に、郡池沼多く蘆葦叢生す。蓋
し葦立の義なり。聖武天皇の天平年間(729〜748)に建てられた、武蔵国分寺跡から出土した瓦に足の字が付いており、足
立郡からの寄進と考えられている。また「あだち」をインドネシア語で解すると「アタ・チ」、「広々とした場所に在るエリア」
となるらしい。漠然としているが、これもなくはない。昔、東南アジアが大陥没して現在の地形になった時、避難して移住してき
たのが南方系と称する日本民族の一部で、大量にやってきた。日本人はマンモスと共にやってきた北方系(秋田美人が代表)と、
この南方系、それに朝鮮半島経由でやってきたモンゴロイド、中国大陸南部から直接やってきた中国人、さらにペルシャ人、イン
ド人などで構成され、種族的には136ほどにも分類されるそうだ。【葦】よほど有用な植物で、若芽は食用になるし、茎は葦簾
(すだれ)・葦簀(よしず)・屋根・製紙の材料になり、根は蘆根(ろこん)という漢方薬、煎じると利尿・止血・解毒に効果が
あり嘔吐を抑える。そして水辺に生えているだけで水質を保全する。育てるのに手間隙がかゝらないばかりか放っとけば勝手に増
えてくれるし、刈り取ったあと種を蒔く必要もない。雁は海で休むときの舟とするために葦の葉を加えて渡りに旅立つという。パ
スカルは人間を?考える葦?と準えた。?豊葦原の瑞穂の国は美辞装飾の言葉だけではなかったのだ。葭・蘆・葦はみんな同じだが、
「葭」は若い葦、「蘆」は穂の出ぬ葦、「葦」は成長した葦の違いがある。「芦」は本来別の草だが「蘆」の字の略字として用い、
伊勢地方では「浜荻」と呼ぶ。また荻窪の?荻?は葦に似る。吉原遊郭は葺屋町(人形町辺)外の葦原を造成して作ったので、その名
となったもので、千束池跡に移転した新吉原はその名を継承したが千束池もまた一面の葦原だった。以前はつい先頃まで、区内に
は葦簀屋(よしずや)が至るところにあって、生産販売していたものだ。近年河川敷の有効利用でグラウンド、緑地、公園にした
ため、葦原は失われてしまったが、これが大変な間違いだということが判ってきた。というのは葦原は、水質浄化の役割を果たして
いたのだ。現在、霞ヶ浦では、浄化対策として葦原の復元に取り掛かっている。だからこそ「豊葦原」なのだ。(二本の蘆束)仏
典にあるたとえ話。葦は1本1本が細く弱いために、それ独自では立つ事ができない。が2本、3本と寄って立つことにより人を
踏み迷わせる葦原を形成できる。これは世の中に存在する総てが、それ独自で存在するのではなく、他との関わりによって存在し
得ていることを教えているのだ。一方だけを強めて、他を排除すると、バランスが崩れ、地球温暖化ということになり、却って己
を害することになるということだ。助け合えよ! 豊葦原の瑞穂の国は・・・と云うではないか。三本の矢・三ツ矢と同義。
■西新井の由来(にしあらい)1〜7丁目 昭和42年3月15日。西新井村。明治22年西新井村大字西新井、昭和3年西新井町大字西新井、同7年足立区西新井町。同42年新住居表示により西新井町の大部分(環七以北)に栗原町・伊興町槐戸・伊興町諏訪木・伊興町1丁目・上沼田町・谷在家町の各一部をあわせた町域を現行の「西新井」とし、同62年西伊興町の一部を4丁目に編入し新住居表示を完了した。小学校名は西新井の名を本町に取られ西新井第一小学校と負け惜しみの第一を付けざるを得なかった。参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。
西新井の由来:天長三年(826)空海(弘法大師)が悪病の蔓延に苦しむ村人たちを救おうと十一面観世音像を彫って地中に埋め21日間祈願したところたちまち悪疫が退散したという。後に大師の徳を慕う村人はこのことを忘れぬため大師堂を立てて観音像をお祀りしようと掘り出したところ(寺宝は蔵王権現・弘法大師像・天台大師像だが十一面観世音像はないらしい)。その穴から清水が噴き出したので井戸に造り「お加持の井」と呼んだ。別には観音像は地中に埋めたのではなく古井戸に投入したのだと説くものもある。また地中に埋めたり、古井戸に投じたのではなくお堂にお祀りして祈願をしたところ清水が湧き出したなど微妙なニュアンスの違いがある。弘法大師は鉱山師だから湧き水を掘り当てることなぞ朝飯前だ。当時井戸の位置が大師堂(観音堂)の西側に当たったので、この地が「西新井」と通称され、大師堂は「西新井のお大師様」として広く知れ渡った。やがて地名となり村名となった。だから西新井は、今は涸れたが構えが今も残っている五智山遍照院総持寺のお加持水の井戸だ! なお大師線は西新井大師の参詣のために敷かれた鉄道ではない。東上線の板橋と結ぶ西板線計画の頓挫した名残りの供用部。その操車場予定地が常盤台住宅で、計画が崩壊したとき分譲地として処分した。
■凶悪事件 1(女子高生コンクリート詰め殺人事件)
平成元年3月29日綾瀬署は江東区若洲の埋め立て地で、コンクリート詰めのドラム缶の中から布団に巻かれた女性の死体を発見
した。コンクリートで密封されていたため遺体は腐敗していなかったが、遺体の状況はあまりにも惨たらしいもので、女性の顔面
は変形と陥没が酷く、外見からの判別は全く不可能。全身が殴打によって腫れ上り、ライターで焼かれた痕も多数あった。そして
皮下脂肪の厚さは通常の3分の2しかなく著しい栄養失調状態だった。この犯行発覚は、意外なことで、平成元年3月29日練馬
少年鑑別所で綾瀬警察署の捜査官が昭和63年11月8日に強姦窃盗などにより少年鑑別所に送られた少年Aを取り調べた際、捜
査官が何気なくいった「お前、人を殺しちゃ駄目じゃないか」という言葉に、他の3人が自供したと勘違いしたドジにある。昭和
63年11月25日午後8時過ぎ埼玉県三郷市内をバイクで走行中、アルバイト先から自転車に乗って帰宅する途中だった県立高
校3年生(17歳)を見かけると、少年Aは少年Cに対し、「あの女、蹴れ。あとはうまくやるから」と命じ、Cは言われた通り
に、バイクで近づき、左足で右腰を思いっきり蹴って、角を曲がって様子を見た。少高生はバランスを失い、自転車に乗ったまま
転倒、側溝に落ちた。そこへAが近づき「大丈夫ですか」と優しく声をかけ、助け起こすと「あいつは気違いだ。俺も脅された。
危ないから送っていってやる」といって、近くにある倉庫の暗がりで「俺はヤクザの幹部だ。お前はヤクザから狙われている」
と脅し、ホテルに連れ込んで強姦した。それから41日間に亘って綾瀬のCの自宅に監禁。鬼畜のようなすさまじい暴行と陵辱の
限りを尽くして殺害した。主犯の4人は某暴力団の青年部組織「極青会」の構成員(全部で10人程度)で、埼玉県三郷市一円で
車シルビアを使い毎日のように婦女暴行を繰り返し、少女監禁中もそうしていたという。逮捕後犯行の中心となった少年4人は、
成人と同様の刑事裁判が妥当とされ、結果、実刑判決を受け少年刑務所に服役した。判決は主犯格のA(当時18歳)は懲役20
年、サブリーダー格のB(同17歳)は懲役5年以上10年以下。またC(同16歳)は懲役5年以上9年以下、D(同17歳)
は5年以上7年以下だった。4人とも出所したが、Bは平成16年暴行脅迫事件を惹起し実名神作譲(現姓小倉)が公表された。
判決は懲役4年で再服役している。A・C・Dは精神に異常をきたしているとされる。E・F・Gは比較的普通のようだが、内
面は判らない。年を取って肉体が弱ると妄想から精神に異常を来す可能性はある。しかしこんな犯罪を犯すということは、幼少
期の教育に問題があり、精神に異常を来たす以前に精神異常者だ。また、被害者の家族にも精神病に陥った二次被害者がいる。
加害者の家族はいたたまれず事件後直ぐに慌てて町から逃げ出し、被害者の家族に謝罪し続けているが、折り合いはついてない
ようだ。Aの親は自宅を売った金5000万円を支払っており、Bの親は弁護士に賠償金を積み立てているとか。C〜Gの親の動
向は判らない。そのほか被害者少女に性的暴行を加え、この残酷な虐待殺人事件に関わった少年は数十人いて、逮捕はおろか事情
聴取すら受けていない者が多数いる。彼らは罪の意識はなくのうのうと平和な家庭を築き善人面して生きている。監禁・殺人の事
実を知っていたと思われる人は100人に達するが通報なり情報提供した者は一人もいない。加害者の家族もまた逆説的な意味で
の被害者だ。Aは平成19年2月に出獄した。この事件を扱ったビデオ作品が2種類存在するが、1本は会社が倒産して幻のビデ
オとなり入手困難。今1本は劇場公開予定だったが、加害者の親が所属する関係者の脅迫的抗議が殺到し上映を断念した。しかし
その後渋谷で1週間だけ公開されたそうだ。話題にもならずこのビデオも幻となった。苦労すれば入手は困難ではない。(足立出身
の北野監督でリメイク版を望む)※ 近頃、どの筋が漏らしたものか加害者の、実名が出た。
A.宮野裕史(平成19年仮出獄)、B.小倉譲(前出)。C.湊伸治(犯行現場の提供者)。D.渡辺泰史(少年院でイジメに遭い、出
所後ひきこもり)。E.中村高次(些細なことで宮野・小倉・湊にリンチされたらしい。「現在、地元のスナックで事件のことを面
白おかしく語る無反省人間」と注釈がついてる)。F.伊原某、結婚し女の子を設け、新聞配達で生計を立てているとのこと。Gにつ
いては記載がない。このことでブログ上で喧々囂々の非難、侃々諤々の議論が起こっている。服役によって罪は消えたとするも
の、この事件は民主主義で語るべきものではなく、加害者たちは自殺するか、殺されるべきだとするもの、生々しい議論が展開さ
れている。可哀相なのは伊原の娘だ。足立区に住んでいたとしたら、イジメに遭うだろうし、遭わないまでも事実を知ったら、正
常な神経では生きていられない。悩みは人知れず大きなものとなろう。お節介な奴がいて耳打ちするものだ。宮野は養子縁組をし
て本名を隠している。
■凶悪事件2(元妻バラバラ殺人事件)
平成19年6月14日午前1時50分ごろ、警視庁竹の塚署に「元妻の遺体を切断した」と男女2人が自首してきた。この2人が住む8丁目3番の住宅を同署員が調べたところ、2階の居間で、女性の遺体がバラバラに切断されてポリ袋数個に入れられているのが見つかり、同署は2人を死体損壊容疑で緊急逮捕した。逮捕されたのは、NHK委託集金員の志賀耕二(47)、内縁の妻の無職人見朋子(34)の両容疑者。遺体は志賀容疑者の前妻の無職志賀美穂さん(40)で、頭部や両手、両足などをバラバラにされていた。調べによると、美穂さんは4年前に志賀容疑者と離婚したが、その後も中学生の子供2人とともに、志賀容疑者との同居と別居を繰り返していた。今年4月ごろからは、人見容疑者と志賀容疑者が3階で、美穂さんと2人の子供は1階で暮らしていたという。志賀容疑者は「5月下旬に(美穂さんを)殴ったら死んでしまった。今月上旬、遺体を(人見容疑者と)一緒に切断した」と供述しており、同署で死因を調べている。志賀容疑者は5月上旬にも、別の女性に付きまとったうえ顔を殴るなどしたとして、同署が傷害事件の容疑者として内偵捜査していたところだった。NHK広報局の話「職員ではないとはいえ、受信料の契約・収納業務を委託している事業者が逮捕されたことは誠に遺憾で、心よりおわび申し上げます」と消気ていた。
■凶悪事件3下山事件
五反野南町は昭和24年国鉄総裁下山定則が行方不明ののちに轢死体で発見されたところだ。消え
た町名とともに記憶している人も少ないだろう。事件は迷宮のまま今日に至っている。アメリカの謀殺の疑いは今も拭えない。当時の国民は反米的で、小泉純一郎のようにアメリカにペコペコするのは嫌われ、アメリカのが指導した民主化は行き過ぎて共産化寸前だった。マッカーサーは下山総裁に国鉄職員10万人の解雇を迫った。アメリカの目的は民主化にブレーキをかけることだ。そして下山総裁殺害を共産党分子の仕業に見せかけることで国民の目をアメリカに向けさせて共産化を防止することだった。マッカーサーは祈った。「日本国民よ、どうかアメリカの方にだけ向いててくれないか。どうせアメリカの植民地なのだから」近年常盤線のガード下に「下山国鉄総裁追憶碑」が建てられた。大田区上池台2−21の下山総裁邸跡地にも「山国鉄総裁追憶碑」が建てられているらしい。
■凶悪事件4(小野悦男事件)
昭和49年7月から8月にかけて、千葉、東京、埼玉で女性が強姦されたうえ殺害される事件が相次いだ。「首都圏女性連続殺人
事件」と報じられたこの事件では、足立区の清掃職員小野悦男(当時38歳)が別件逮捕されたが、やがて犯行を自白。しかし小
野の供述にはおかしな点もあり、冤罪が疑われる事件でもあった。平成3年4月東京高裁は小野の殺人罪については「無罪」とし
た。小野は16年ぶりに釈放され、一躍「冤罪のヒーロー」として人々の涙を誘った。そんな小野だったが・・・高裁判決から5
年、平成8年1月9日午前9時45分頃、「足立区六月町の駐車場にマネキンのような黒い物がある」という通報があった。
警察が調べると、その黒い物は布団にくるまれた女性の首なし焼死体で、遺体の陰部は切り取られており、パジャマを着ていた。
近所の人によると、この駐車場では6日夜から7日未明の間に何かが燃えているのが目撃されていた。まもなく「小野と同居して
いた女性の姿が最近見えない」、出所して平穏に暮らしているはずの小野の近くに住む人がそう証言した。しかし警察はなかなか
手が出せない。下手に接触すれば、支援者を中心に再びバッシングを浴びる恐れがあったからだった。このため布団に付着してい
た体液との照合のために、捜査は廃品回収業者や日雇い労働者に扮して、小野の吐いた唾液を採取しようとマークし続けた。「国
から大金をせしめたんだ。何年だって飲んいられる」飲み屋でそう話す小野の姿がそこにあった。さらに4月21日都内の公園で
遊んでいた女児(当時5歳)が男に首を絞められ失神するという事件があった。男は「もっといい公園に連れていってあげるから
自転車に乗りなさい」と、別の公園に連れて行った後、いたずらしたという。26日目撃証言から、少女殺人未遂の容疑で小野が
逮捕される。小野は犯行を否定していたが、同じ頃、小野の首なし焼死体に付着していた体液と小野のDNAが一致した。
5月1日足立区一ツ家の都営東栗原住宅の小野の部屋の裏庭から腐敗した頭部と、切断に使ったと見られるノコギリが発見された。
切り取られていた陰部は冷蔵庫の冷凍室に入れられていた。もはや小野に言い訳はできなかった。支援者たちは裏切られた結果に
波が引くように彼の元を離れていった。焼死体は茨城県出身の女性(41歳)で、家出をしてきて区内の公園で偶然小野と知り合
い、同居するようになったという。ところが1月5日小野は家事をしない女性と口論となり、頭を殴ったところ死亡したため、リ
ヤカーでゴミ類と一緒に駐車場へ運び、火をつけて頭部を切り取ったという。小野は遺体を焼いた理由について「骨を実家に返し
たいと考え、焼いたが骨にまでならず、頭蓋骨だけでも実家に返したいと思い持ち帰った」と供述。松戸の事件に関しては「無罪
になった事件は、絶対にやっていない」と話しているという。平成10年3月27日東京地裁で無期懲役の判決。翌年2月9日東
京高裁で控訴棄却となり、無期懲役が確定し収監された。
■ビートたけし(北野武)
足立区島根町1115番地に父菊次郎、母さきの四男として生まれ、TVの本放送が始まった昭和28年梅島第一小学校入学。同
34年小学校卒業、第四中学校に越境入学。同37年中学校卒業、都立足立高等学校入学。東京オリンピックの翌年の同40年明
治大学工学部するも中退。但し平成16年に特別卒業認定者に選ばれる。そのため学歴は明治大学工学部卒となっている。学生時
代はジャズに傾倒し、新宿の?Lefty Candyt?を初めとしたジャズ喫茶や新宿アシベ、当時の文化人の交流の場所、風月堂にも入り
浸っており、たまに来る依頼でジャズ喫茶のボーイもしていたが、ジャズの見識は一部で有名であった。この頃は青春の葛藤期で
もあり、プロボクサーを目指してジムに通い、また2種免許を取得してタクシーの運転手をしたりアルバイト三昧の青春時代を過
ごした。その後、映画を観るために浅草へ頻繁に通う内に浅草6区にあったストリップ劇場浅草フランス座のエレベーターボーイ
のアルバイトしていたが、同劇場を取り仕切る「浅草の首領」こと深見千三郎に師事し、前座芸人北千太(北野姓と師匠の名前か
らの芸名だが、以後名前は頻繁に変わった)としてコント(軽演劇)を学んだ。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタッ
プダンスの修業にも励む。前座仲間とのコントコンビでのデビューを目指すが、仲間の病気により頓挫。なお当時の同僚として作
家の井上雅義がいる。舞台中心の昔の浅草と違いテレビが台頭して来た浅草は、隆盛時代と比べ物にならぬほど寂れて、観光地と
して以外の存在もなくなり、実質ショウビジネスのメッカとしての終焉を迎えようとしていた。当時浅草ロック座に在籍していた
兼子二郎(ビートきよし。現在はビートキヨシ)に誘われて漫才を組むも全く芽が出ないため、兼子の発案で『有名な師匠の弟子
になった方がいい』と戦略的に松鶴家千代若・千代菊門下に入る。「わっかるかなあわかんねえだろうなあ」のギャグで一世を風
靡した松鶴家千とせは兄弟子に当たる。元はエノケンや古川緑波のように、ボードビリアンから銀幕デビュー迄を視野に入れて志
も高く軽演劇を教えていた師匠の深見は、『色物をやるために芸事を教えたんじゃねえ』とたけしを破門同然に突き放した。一方
たけしはコンビ松鶴家二郎・次郎の2代目次郎となり漫才師。後にコンビ名を空たかし・きよし(たかしが北野、きよしが兼子)
にするが、この頃は兼子主導で漫才を進行させていた。さらに「ツービート」と改名してからは、旧来のツッコミとボケのスタイ
ルから脱却して、たけしがネタを一人で喋り続け、きよしが時折たしなめるというスタイルにチェンジしたが売れる所までは行か
ず行き詰まる。そんな折に大阪で新進漫才師として頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、スピードを早めて喋りまくる
スタイルへ変貌した。この頃漫画家の高信太郎や業界人から注目される中、太田プロに所属。時はマンザイブーム(旧来の?漫才?
と区別するためにカタカナ表記)のムーブメントが起こり、「赤信号みんなで渡れば恐くない」などの毒舌漫才と毒舌ネタを売り
物とした芸風に完全にシフトした。しかし当時はアイドル性と女性ファンが取り囲むブームにより、B&B、ザぼんち、島田紳助
竜介、のりお・よしお等の後塵を浴びる3、4番目の人気順位だった。しかしファンは圧倒的に男性が多かった特異のコンビだっ
た。あくまで漫才でトップを狙うたけしを裏切るように、きよしから『漫才はきついからもうやめよう』とフジテレビTHE
MANZAI‐5を最後にツービートは解散した。漫才時代は「ツービートのわっ毒ガスだ」などの著作も手がける。望まず
してピン芸人になったたけしはオールナイトニッポンやTHE MANZAIからの発展番組「オレたちひょうきん族」に出演し
て?ピン芸人のビートたけし?として世間に知られるようになる。これを機にたけしときよしは天と地に分かれる。
(戦後最大の足立出身有名人)
■バタヤ部落(文化)
西新井橋の北方(本木1丁目、関原1丁目)は住宅過密地域で、貧困層が多く。昭和30〜40年代において「バタヤ部落」と呼ばれたところの一つだ。東京にはそんな貧民の住処があちこちにあった。たとえば有楽町のガード下や、御茶ノ水沿線、浅草の蟻の町など。バタヤとは一次廃品回収業者で、当時は「屑拾い」と呼ばれ、背中に籠を背負って町を徘徊し金目になりそうなものを拾い集めて、二次業者のところに持っていって売り、日々の収入とした。その彼らが公有地などを不法に占拠してバラック小屋などを建てて住み着いたところを「バタヤ部落」と呼び、金を蓄えたものは独立したが、類は類を呼んで部落は膨張した。昭和40年代に入り高度経済成長期を迎えると、大量生産・大量消費の時代が訪れ、製紙業界では包装資材としてこれまで使用していた木箱が段ボールに切り替えられ。その原料となる下者古紙を中心に需要が増えた。またこのような需要構造の変化は、パルプ技術の革新を伴って、広葉樹のパルプ化を急速に進展させた。で、建場(一次回収業)にも大量生産・大量消費に見合った合理化が求められ、集荷機構の簡素化などが急務とされた。そのような時代背景のため、「屑〜イ、お払い〜」式の、背中に背負った屑篭やリヤカーでの収集量ではとても追っつくものではなかったし、バタヤの収入も知れたものになっていった。高度経済成長では、土木建築事業を始めとして日雇い労働者の産業需要を押し上げたため、低い収入のバタヤの担い手は次第に減少する傾向にあった。そこへ、屑を回収する際にトラックを用いた「ちり紙交換」が普及するようになる。それらの要因が重なり、街中で屑を集めて歩いたバタヤの終焉を招くことになった。つまり屑の回収手段が、籠やリヤカーからトラックに代わるというモータリゼーションによって、屑の扱い量が急増し、回収に回る区域が拡大したことで、裸一貫で始められるということが最大のメリットだったバタヤは、屑回収を続けられなくなり、この時代にほぼ消滅し、バタヤ部落も代替地を与えられて移転していったり、職業の転換で一般に溶け込んだので自然消滅した。蟻の町は江東区の埋立地に代替地を与えられ、追い立てられたように映ったが、今は土地も高騰し子孫は潤っている。バブル崩壊後、バタヤは復活し、ポイ捨て空き缶などを集めるなどして収入を得るようになった。新しいバタヤ部落は、上野公園、代々木公園、隅田川・荒川の堤防内などに部落を形成している
http://www.geocities.jp/pccwm336/ (情報提供)
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